討論番組にみるプレゼンテーション社会の弊害

本来コミュニケーションには多様な次元があり、何らかの形でその有効なサマリーを図ってゆくのがコミュニケーティブなプレゼンテーションであると、私は思う。しかし、どうも昨今世界に普及したプレゼンテーションに関する主義は、マーケティングプロパガンダのためのプレゼンテーションというか修辞学というか、思考的より感覚的な文化をますます前提としている。

参考: 修辞学では、聴衆の心理操作が大きな 位置を占め・・・


価値的・意味的に多様化したとされる経済的に優位な「先進国」において、プレゼンテーション主義に代表されるようなマスマーケティングメディアの論理がヒューマンリソースの差別化の基準にまで入り込み、人々の集合的心理を支配してゆく一方で、社会からの価値的・意味的なドロップアウトや忌避者が増えているということには、それなりの関係があると思うんですよ。


もうひとつは、たとえば、「社会的な成功者=EQの高い人格者」といった論理に象徴されるような、処世的成功モデルのステレオタイプ化とその価値の倫理的正当化が、生産構造のあるべき姿についての政治的な対立軸がなくなった現在において、一種の原理主義として無批判に社会のあらゆる現場に浸透してきたということ。これらは一見して政治というアプローチではなく、一種の「科学」や「心理学」といった事実に基づくものと称して浸透してきたが、よく見ると擬似科学であったり、またはアカデミズムであってもある一派のプレゼンテーションであったりする。しかし、これらは世間一般では政治とは理解されないものでありながら、アカデミズム内では主義による政治的な対立要素があったりする。