ワーキングプアはどうして定義される必要があるんだろう?

ワーキングプアは必然か?・・・ということについて

今日は愚樵さんの「愚樵空論 - ワーキングプアは必然か」のところを読んで、お金についていろいろ考えさせられる。
http://d.hatena.ne.jp/gushoukuuron/20060730/p1


やっぱり、物理的価値を量るものさしとして、「貨幣」を越える何か別のモノが・・・何か別の循環が考えられないか。そう思うんですよ。いや、マジ。


どうしてもすべてが、権力も含めてお金に換算され、それが循環し、富を生む・・・ということになっている。でも、富=財であるということにおいては、お金=お金の同語反復をしながら価値が拡大するんでしょうけど、精神や物理やそう二元性でなしに、実体感できる豊かさっていうのは結局は、それを受容する心理体験へ還元されるんですよね。価値なんて観念自体、そうじゃないかな。だから、心理体験をもたらす権力と金は強い結びつきを持つ。


キリストの「愛」じゃないですが、豊かさを交換し、また、分かち合うことが、それが<無制約>にできない物理的な環境上(それが可能になると新世紀エヴァンゲリオンで全人類のABSOLUTE TERROR FIELDが崩壊する世界ですね)、ここには生活世界上の選択と判断が常に介在せざるを得ない。


ここで、循環するモノ(または等価交換される媒体)がマーケットを生むんですが、その循環するモノ=媒体が圧倒的に全世界を覆い、圧倒的に強力であるほど、心理体験をもたらす権力・・ひいては心理体験は、それにより定義されてしまう。

しかし、それは実は共同主観的な観念なんですね。ただ、エモーションにおいては実在する。


ワーキングプアも、それを見る側に価値が入ってくると、そのような外部的な定義が作用する気がします。生活上の事実としては人々はそれを隠蔽してはならないとは考えるんですが。。。