私の本心へのインタビュー

インタビューアー:ベロベロ星人



ベロベロ:......



私の本心:いや、ほんとに冗談経済圏は必要ですよ。冗談ほど真実を突いているものはありません。



情報や商品を知るには、その情報について書かれたサイトを見に行きますが、それが本物であるか、本当であるかを知るには、買って見たり、ちょっと信じてみた振りをして人を実験台に伝達してみたりする必要があります。想像力豊かな人は自分の頭でそれをシミュレーションします。このような伝達に関係することにより貨幣を得ることは、つまり、仮構された情報(真偽はその時点では分からないがポテンシャル)と貨幣の交換にあたります。



まあ、ちょっと乱暴な話ですが、この間に経験とか他の情報とかCGMとかがあって判断するのであり、場合によっては評判、権威、多数決、また場合によっては、断片的見地の集積から集合知の活用といったことも介在するでしょう。



しかし、そのような(仮構された情報と貨幣の交換によって得られた)知は、道具的な、プラグマティックな知でもあります。それはそれでよいのですが、なんのためのプラグマティックな知であったのでしょう?もちろん知は契機であり多様な利用が可能ですが、ここでは入手と等価交換プロセスに由来する側面だけやや主観的に強調してみましょう。
・・・それは生活するためのものであり、その入手と交換のプロセスの枠組みに影響されており、また、その枠組みに意味づけられながら消費されていきます。あたりまえのことですが、商品としての価値が、はじめから期待されてもいます。期待されるレレバンシーとはそいういうものです。



しかし知には、そのような合目的的な貨幣経済圏以前の、多様な文化領域があります。現代のような知的/文化的産物と貨幣との等価交換の枠組みは、実は比較的近代的なものです。近代マニュファクチャー以降のものでしょう。さまざまな産物が、消費者に比較的均質に消費されるようになって久しいとは思いますが、必ずしも、生活や世界のすべての領域で知が経済的に交換・消費されてきたわけではありません。これらの領域は、必ずしも顕在的な経済によって代表できるものではありません。今のところは。



今、一部で試みられつつある(と解釈されもする)、消費の枠組みの拡張を通したネットでの消費/富の再分配変革は、それが集合知への親和性がある手法がとられようとも、近代的経済のロジック、例えば優劣の概念、競争の概念、市場の無限成長の神話、産業主義の概念など・・・の性質を受け継ぎ、それらがもつ限界を自然と持っているのではないでしょうか。

まあ、なんにでも限界はありますけどね。だから、冗談経済圏がおすすめなんですよ。これまでの枠組みを絶対化したり、あたらしい意味づけやより人間の精神生活に近い材料までつかって肥大硬化させないために。また、あとでそれがなんだか説明します。それまでに説明を適当につくっておきます。



ベロベロ:すばらしいですね。肥満とは実に耽美です。ハァ〜〜(溜息)。ローマは1日にしてならず。ダイエットは3日にしてならず。ベロベロ。冗談経済圏とはなんなんですか?



私の本心:いや、どうでもいいことですが、まことしやかな等価交換にノイズを入れていくことで、既成的な価値概念のヘゲモニーにメスを入れてスパッとやるんですよ。イギリスの痴漢のように。



ベロベロ:すばらしいですね。ベロベロ。ようするにルサンチマンですね。あの堀江容疑者ルサンチマンマンだったそうですが、感想は?



私の本心:広告に「冗談サイトでリラックス」とか張っても、それではつまらないのです。広告自体に冗談の要素があることによって、はじめてネットワークとしての冗談が活きてきます。



ベロベロ:......



私の本心:利用広告媒体の方針によりどのような広告が可能かが異なってきますが、冗談が、ネットワーク化することが肝要です。これにより、「意味」を強調し宣伝する情報のネットワークに、有料広告の活用とはいえ、単純消費的ではない次元、感性の広がりと自由度を注入していきたいと思っています。



ベロベロ:私的広告ということですか?ありますよね。アメリカの新聞だとね。 ベロベロ。



私の本心:それにもかぶりますね。私的広告をもっとビジネスにするアドネットワークなんかも面白でしょう。あとで考えて見ましょう。それはそれとして、今、私が必要であると考えているのは、ネットの広告空間のロングテール化みたいなものでしょうかねぇ。広告する次元は一様ではないということもアリで。それで結果的に儲かるかどうかではなく、ネットはあまりにも、日常空間化してしまっているために、既成の商業資本の枠組みだけでは語れなくなっているはずだということなんですよ。普通の町並みですよ。繁華街もあれば、峠の団子屋もあるとか(ないない)。外と内がシームレスだという点でいうと、軒先も縁側もあれば、囲炉裏も厠も風呂あるということで、この点、テレビなどの放送とは同列には扱えないといえますねぇ。



ベロベロ:商業主義の問題はタブーとなっているとお考えですか? ベロベロ。



私の本心:どの程度タブーであるかどうかはわかりませんが、商業(資本)・勤労(共産)といった論理は近代産業の隆盛とともに非常に強力なイデオロギーとなったと記憶しています。さて、この対抗理念としてのヒッピームーブメントにいそしみ久しく、チベットでは孫たちが小学校に通うようになったこのごろですが(嘘)、本質的な脱産業または商業批判という観点は、自然保護や、文化人類学的な観点の一部、心理的神秘主義的な領域でのアルタナティブな運動、などで第三者的もしくは対症療法的な観点としてありますが、本質的なアンチテーゼによる大きなムーブメントはなく、あったとしてもかなり限られたもではないかと感じています。あまり調べてないのでわかりませんが。産業の高度化→情報化という路線は、さまざまな派生はあるものの、概ね対峙概念ではないと思います。で、対峙の必要があるのかどうかですが、私は、少なくも現代文明に何らかの状況の行き詰まりはあり、さまざまな枠組みを批判的に案出してみる甲斐はあると思いますね。



    • ※ムーブメントであったとしたら、それは政治的なものになったでしょう。
    • ※また、ここでは商業主義、産業主義、資本主義、共産主義などがごっちゃになっています。近代産業主義という括りのなかでの、商業主義のほうがよいかも。ただし、勤労に関するやや圧迫的な共同観念が原型そのままで概念化して浮上したのが共産主義であるとも思います。このような観念の類は、資本主義の伝統の中にも、たとえばプロテスタント的な勤労の倫理(研究すればユダヤ的なものも、儒教的なものも、カウボーイ的なものもあるでしょうけど)として多様に遍在しているんだと思うわけです。