web2.0というものと集合性の神話と

なんとなく思うのだが、スタティックでない方向性の中でwe the webというとき、また、流れる集合性のなかでの生産という概念のなかで、個という生産または発生単位にどのような価値があるのかを再度見直してみる必要があると感じる。


それは、私のきっかけとしてはある種の恐れを感じるからだが、そのおそれというのは、知の進化というか、知のメディアのなかでの・・・動的な情報媒体のなかでの人間の精神性の進む方向というか、そのようなものについて、ある種無批判なもの、critical thinkingがどこかで停止して受け入れられてしまっている地平が(というか希望というか)そういうものがふと感じられたからだ(それが常であるとは限らないが)。。。

ちょっとこのあとで続けよう(予定)。これは自分でも整理したい課題だ。

   →クリティカル(であること)は、オプティミズムに対する対義語的なものでも対峙概念でもない。
    それは悲観論で間に合う。

集合知」(意訳はそれとして、群衆知が本義)と訳される"Wisdom of Crowds"はジャーナリストでNew Yorker誌のコラムニスト、ジェームズ・スロウィッキーの2004年の著作であり、また、その考え方だが、人の集合体が個々人のそれぞれより優れた知を生み出すには、次のような条件が必要とされる:
    - 意見の多様性
    - 各メンバーの独立性
    - 脱中心化(分散化とも訳されるが…)
    - 個々の判断を集合的判断に変換するメカニズム


The Wisdom of Crowds

 - Diversity of opinion: Each person should have private information even if it's 
  just an eccentric interpretation of the known facts. 
 - Independence: People's opinions aren't determined by the opinions of those around them. 
 - Decentralization: People are able to specialize and draw on local knowledge. 
 - Aggregation: Some mechanism exists for turning private judgments into a collective decision. 
                                                                                ©WIKIPEDIA

だが、はたしてこれは十分条件なんだだろうか?そして、個々人のグループとは絶対的、または普遍的な範囲なの?(全人類の縮図?)

    - 意見の多様性→どのような広がりまで多様化できているの?
    - 各メンバーの独立性→どの程度独立しうるの?
    - 脱中心化(分権化)→どこまでdecentralizeできるの?
    - 個々の判断を集合的判断に変換するメカニズム→どれだけ効果的な仕組みなの?

このように見てみると、定義自体に解釈や程度の自由度or未定があるため、十分条件という図式ではない。また、必要条件としても、必要となるインプットと、目的とするアウトプットのいずれかを自由に定義(オープンエンドである)できるわけで、よって相関関係の示唆(多様な媒介変数の介在)はともかく、因果関係の定義としては成り立たない。オープンエンドであるどちらかの出口は世界そのものと同じく広いため、合理化的なレトリックで、神秘主義的な方向に走ると、どのような現象も証明されたような気になってしまう・・・傾倒すると、そういうリスクもありそうだ。

しかし、ここであらためてスロウィッキーがどのようなシチュエーションと対比して、優れた知が生じるかということを言っているかを確認しておきたい。その対比は、すべての個々人の知性ではなく(やあ、それいったらきりがねぇーす)、集合的な知の失敗例である…上記の条件が反対のベクトルで動いたときの集合的な「知」との対比においてである。

ちょっと横道〜〜集合知予測市場
※ちなみにスロウィッキーは予測市場の支持者であり、関連して米国防省の研究機関DARPAによる
Policy Analysis Marketの立上げの失敗も残念なことと見ているらしいWIKIPEDIAによる)。
参考: 狂気の「テロ先物市場」を生み出したペンタゴンの精神風土  

ところで私(tc)の方は予測市場というより蓋然的な期待市場と言ったほうがいいと思う。蓋然性は、 一般的な蓋然事象の蓋然期待値の分布と同じような分布を描くだろうし、突発的な事態や技術的な ブレークスルーの発生する頻度の期待値も、そのような突発事項の周期にかぶることも統計的には あるかもしれない。しかし、そのようなイレギュラーな事態が何であるかは体験してみないとわか らないのだから、こっちは集合知というより、統計的な現象ではないかと思っている。(今のところ) もちろん、集合としての個々人の知的なアクションも、統計的な事実に収斂されてゆくのだが・・・


集合知の利点はあり、利点は最大限活用したい。それはおそらく偶然性(つまり可能性)に寛容であるということじゃないだろうか。創造というのはゼロから生じるのではく、相対的な動きのなかから、模倣、組み合わせ、連続といったものから、見いだせるものだが、必然的にというのは、あるモノの、ある必要や構成へのマッチングであり、ここが重なるのは、多様な可能性への寛容、ランダムかつ連続的に発生するまたは発露することへの寛容がその確率(chance)を拡大する。。。ということではないだろうか。


そして、逆にその利点が逆作用するという点が、集合性への過大な希望のなかでありえはしないか。。。という若干の危惧。

これとは別に、あとで郡知能やら進化的計算についても書いてみたいな。

集合知はジャーナリストの手による最近の流行ものだが、ひょっとしたらこういう方面の情報にも触発されていたりするかもね。