さて、私も(拡張型の)市場主義者なので一言言わせてもらうと・・・

日本の産業構造全体のROEの低さは日本型の「派遣業界」の存在による内需価値創出の水増しにもあったのではないかと。

そもそも日本ほどの固定型の「派遣」という制度(それは身分に関わるものでもある)は、日本のように正規労働市場流動性が極端に低い国でこそ成立したものであり、そこを狙ったベンチャーが業態として確立していったきらいがある、と思うのだ。不動産同様、それも一種の「価値」のバブルではなかっただろうか。そのような構造からはじきだされる財の価値は、手数料サービスのそれだ。また、それは身分の固定化(逆にそこに陥らなかったものにとっては既得権益の固定化)という安心サービスのそれでもある。が、それは日本的「営業」同様、ソフトな資本財の蓄積や持続可能なインフラになるような(社会・人材資本に投資するような)サービスではない。

本来必要なのは、単純労働への人的資源の特化ではなく(そこには既得権益に入り込めなかったかなり優秀な人材もかなり多い)、ヴォケーショナルかつ多様性のあるスキルポートフォリオでの教育向上機会、またそれがすでにある人材、もともと教育されてきた人材にとっては、それが既得権益上の実績の有無に関わらず、事業会社の中で活かせる機会の開放ではないだろうか。

それが上級管理職や正社員の正規労働所得を競争の顕在化によって脅かすことになろうとも(そしてまさにそのような競争を忌避するための制度でが現に存在しているのではないかと)。

ま、正規・非正規の垣根が低く、比較的多様な仕事を経験しうるチャンスが逆に流動性によって生じうる、というところが日本の非モナド的な雇用形態には少ないのだ。それが会社組織、人的資源の経験値をそれぞれに狭め、本来的な市場価値の獲得(や流出)を拒んでいる、そいういう内弁慶なカルチャーが見出した「価値」が、労働身分の制度的の固定という安心サービスであったのではないか。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/943bd8620b008ec7470e1c8cd090d533
〜引用〜
気になったのは私が「労働を市場原理にまかせればすべてOK」と主張していると受け取り、「市場原理主義」を批判するパターンが多いことだ

このあたりか・・・
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/a35608e0284ada31cab5f18d7208c554
〜引用〜
こういう階級闘争史観は、「派遣村」の人々にも根強くある。たとえば湯浅誠氏は「労働分配率の低下」を問題にして、企業は配当や「内部留保」を賃金に回せと主張する。これは共産党が50年ぐらい言い続けている話だが、そんなことをしたら、ただでさえROEの低い日本企業には誰も投資しなくなり、日本経済は沈没するだろう。雇用を生み出しているのは、株主の投資なのだ。

総体としては階級史観などという陳腐なものではない。その場にいるものたちにとっては、企業側にいる人間が安心の損失について考えるレベル同様、価値創出の創意工夫にまで関心がおよばないほど経験により条件付けられたなかで思いつく<せいぜいのその場の発想>なのだ。またはそういう発言だけではなかったのだろうが、そういう発言の部分しかメディアなり(一部)企業側は目につかなかった、ということとすれば、それも互いの悲劇だろう。(ま、階級はおいといて、ギルド的な身分制度で企業組織の調和が維持されることも、また、多様な生活サブカルチャーの可能性隠蔽というのはあるだろう。みなが同じことを感じているか、さもなければ単純な二元論で、というのを信じたい心性が集合的にあるだろうから)

oryzaの環境備忘録

ソーシャル・キャピタル - 池田信夫 blog

しかし1970年代以降、農村の「失業予備軍」が底をつき、1990年代の長期不況で下請けが切られて系列ネットワークが崩壊したため、バッファが派遣労働者という形で露出してきたのである。

だから湯浅誠氏のいう「溜め」を再建することは重要なのだが、それは非常にむずかしい問題で、厚労省生活保護を求めても実現しない。社会的資本の古典として知られるパトナムもいうように、近代社会が原子的な個人に分解される傾向は不可逆なのかもしれない。それによって日本社会の同質性が失われることは、イノベーションの源泉になる一方で、製造業の高い効率を支えてきた信頼ネットワークの「資本価値」を低下させるだろう。

製造業の効率性という観点でいくと、日本では「信頼型」の労働集約型の収斂が、下請けたたきによって下請け発のイノベーションを促してきたきらいもあるのだが・・・

・・・それはおいといて、ここで派遣労働のうち製造業に対するそれをいうなら、「生活保護で無理→モナド化」の時代の到来を待つまでもなく、それはむしろ国家として(またその主権者としての市民・企業市民に)制度責任があるだろう。だから、生活保護に限らず<労働ポテンシャルの効率的活用>をセットで実現する義務がある。少なくも私は一市民として(私は無国籍派のコスモポリタンなので国民ではなくあえて市民というが)、そのような義務を感じる。他人ごとではない。
・・・実際、基本的な生活権とボランティア的な労働をバーターで交換するような形式もよいだろう。一種のコミュニティハウス形式で、食・住のインフラを共有すれば、ある程度のプライバシーを確保しながらも費用効率の高い生活はできるだろうし、反社会的集団が実際に生活保護のピンはね目当てで住所不定無職者を一種軟禁しながら(無給で浮かしながら)換金してビジネスとして成立しているのだから、行政側でよりよい仕組みを企業と協業してできないはずはない。そういうときに単なるフィランソロピーではない社会貢献に熱心な会社が日本には相当少ないということに気づかされるわけだが。

・・・アショカ財団のビル・ドレイトンじゃないが、こういう状況だとつくづく社会起業家が日本でも要るなと感じるこの頃。。。(ちょっと余談だが)