「農協の大罪」〜池田氏blogの書評から

が、池田氏が以下のように考えるなら「労働」もかくあるべき、いや、「食料」の先に来てもいいだろう。

競争市場のグローバル化は(池田氏がそれをどう捉えているかは別として)、その対象となる「場」の安定を均質に捉えることにもその本質があるが、そのような前提は「能力」すら言及をタブー化された既得権益によって(意味づけの部分最適化的に)定義される世界が現にここに存在し続けるということを隠蔽した上で成り立つ、エリーティストなユートピア経済に過ぎない。

ちょっと喩えが遠いかもしれないが、交通の発達が新型ウィルスの発現チャンスを飛躍的に拡大するのと相似で、競争市場の落着き先となる想定「場」を均質に波及させれば、個々の状況・・・シチュエーションのダイバーシティへの所在への考慮なく、大きな仮想マシン的効率によって原理的に均質で単一の競争が仮構されてしまう。極端にいってみれば胃も脳みそも、手足も、神経系も、ビフィズス菌も、そのシチュエーションが依拠する部分最適化(そのよしあしは別としても)が同じ土俵での自由競争原理という(それも恣意概念的な部分最適化というもの)により単一化され、細胞増殖で競争することになると、まあ、その結果、一種の増殖効率が高い細胞種が限られたスペースでパンパンに増殖し個体(地球)を占有することになるということにもなりうる。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/b30f7850017c6e196746fd3208515adf
〜中略・引用〜
これは多くの経済学者の提案している政策だが、著者がその根拠として「食料安全保障」をあげるのはいただけない。彼は「国際経済学では生産要素は企業間・産業間を自由に移動できるという前提に立っている」というが、経済学にそんな前提はない。土地が固定されていても、それを使って生産した最終財の市場があれば、貿易を通して要素価格が均等化され、資源の効率的な配分が可能になるのだ。

が、自然界の種の競争は、その競争原理さえ多様であることにより、リスクヘッジが可能であったということもいえる。仮構された「財」の最大化を目的とする経済学な種ばかりではなかったわけだ(笑)。

誤解がないようにいいたいが、私は狭義な農業保護主義者ではないし、移民についても日本はより積極的に受け入れるべきたと考えている立場の人間だ。が、経済に関しては、近代経済概念はすでに古臭くなっていると考えている。せっかくここまできた人類だ、単一効率のマシンではなく、サステイナブル、かつ多様なデッドエンドに対してリスクヘッジ可能な、価値・生産分散型の経済概念を切り開くべき時代に入ったのではないかと思うわけだ。

〜引用〜
食糧安保の根拠を、中国などの値上げに求めているのもおかしい。中国が値上げしたロシアから買えばいいし、米が値上がりしたら麦でカロリーは補給できる。全世界で数年にわたってすべての穀物の価格が数十倍になって、GDP世界2位の日本が食糧輸入でカロリーをまかなえなくなるような事態は、世界大戦が起こらない限りありえない。食糧安保が「保険」だというなら、そのリスクを定量的に評価すべきだ。農産物価格の上昇へのヘッジなら、輸入元の多様化のほうがはるかに効率的である。

輸入元の多様化は確かに経済危機上はリスクヘッジにはなる。しかし、私の観点はちょっと違う。もう少し農業も人の生態系に近いところにあるものだという観点だ。たとえば、現在世界規模での植物種子の保存が急務になっている(とはいえ現在どちらかといえば産業側の関心だったりもするが)、また、地球規模の自然災害のリスクは1世紀前と比較にならないほど高まっている・・・など、いろいろな、これまで人類がその生存系を保証している生態系を当たり前と思ってきた前提が、だいぶんリスク対象になってきているということだ。カロリー云々ではない、人類の生態系を含めての自然生態系の変化へのリスクに対して、地表でのダイバースな生存圏が脆弱になっているわけだ。それは日本だけではない。農業の工場化についても、アメリカの蓄豚業での不衛生環境と抗生剤大量投入、発展途上国での安易な農薬の使用、遺伝子組み換え食物など各種のリスク要因がある。ま、上場会社の寿命は平均〜十年というから、そういう観点で担保できればそれも経済的かもしれないが。が、さまざまなリスクを経て「経済」が退場するリスクもあるわけだが・・・^^