パソロジカルなる性向と成功(笑)

一寸パソロジーについて想いを巡らす機会があったのでネットを少々漁ってみた。。

まあ、時代とともに多少手前勝手に人文系学際方面から心理学系も舐めたつもりだったのでパソロジーが手法上の相対表現でしかなさそうなこと、もしくはパソロジー的な手法の「ノーマル」や「カルチャー」への転用やらなにゃらは自明という感覚だったのだが。

が、「医学」の観点からは「病理学」でありつづけたのだろう・・・ということを思い出した。

生態人類学とパソロジカルな性向
http://blog.livedoor.jp/humeco/archives/690177.html

同じころ、「生態人類学を学ぶ人のために」という本も読んだ。生態人類学は、私が帰属意識をもっている学問分野である。本の「まえがき」は分野の大先輩である伊谷先生が書かれていた。そのなかに「今日の環境問題に関連して、この学問に過大の期待を寄せる傾向があるが、私はそれを必ずしも妥当なこととだとは考えていない。生態人類学の本来の姿は、病理学的な(パソロジカルな)性向をもってはいない」という一説があり、これには正直なところ驚いた。大学院に入学した頃から思っていた「人類の役に立つような研究をしなければならない」という考えはパソロジカルな性向をもっていることに気づいたからである。

以前はアフリカ系アメリカ人グループを一律パソロジーの対象にしていた時期もあったわけだね。しかし、別に下記のような時代を肯定するつもりではないが、それがパソロジーのエッセンスに相対性(便宜性のイデオロギー)があり、パソロジーや時代、ひいては人類もその対象になり得ることを示しているわけでもあるのだろう。
フーコーがいう「医学」もそうだろうが、規範となった側には自らへのその対象化言及を隠匿する権益が生ずることが、逆にオーソドックスなパソロジーを成立させることにもなる。ま、いい身分ということかいな(笑)

http://www.eric.ed.gov/ERICWebPortal/custom/portlets/recordDetails/detailmini.jsp?_nfpb=true&_&ERICExtSearch_SearchValue_0=ED035678&ERICExtSearch_SearchType_0=no&accno=ED035678

The Social Pathology Model: Historical Bases for Psychology's Denial of the Existence of Negro Culture.〜

The absence of a meaningful conception of Negro culture has forced the interpretation of almost all psychology's data on the Negro into two seemingly dichotomous categories: either that of biological incapacity, i.e., genetic inferiority, or social deviance and pathology, i.e., environmental deprivation.

自称(他称?^^)パソロジカルなパーソナリティーによる今日の戯言。以上。

次のように考えている人がいるとすれば、それは世の中を勘違いしているか、経験が偏っている(それも多様性ではあるが)のどちらかだろう。

http://v.japan.cnet.com/blog/murakami/2009/01/08/entry_27019288/
〜引用〜
経験的にいつもいつも長いメールを送ってくる人は70%くらいの確率で仕事ができない人です。仕事を頼んだり、頼まれたりすると、だいたい、面倒くさいことが多いです。その人の年収は多いかも、少ない関わらず、仕事ができない...ことが多いきがします。
〜引用〜

短いメールは既成観念や既成関係に比例するのかもしれません。

〜中略〜
逆にこの業界でデキる人はメールがだいたい異常に短いです。「了解」だけのレスとか、打ち合わせの日時しか書いてないとか、異常に短く、文面が冷たいです。あと、大手ITベンチャー創業社長はなぜかどの方もメールよりも音声通話の方が好きです。
〜引用〜

そしてその音声通話がとても長かったりするわけですね。メールを補足する手段や権能をもってらっしゃるのでしょう。

さて、私も(拡張型の)市場主義者なので一言言わせてもらうと・・・

日本の産業構造全体のROEの低さは日本型の「派遣業界」の存在による内需価値創出の水増しにもあったのではないかと。

そもそも日本ほどの固定型の「派遣」という制度(それは身分に関わるものでもある)は、日本のように正規労働市場流動性が極端に低い国でこそ成立したものであり、そこを狙ったベンチャーが業態として確立していったきらいがある、と思うのだ。不動産同様、それも一種の「価値」のバブルではなかっただろうか。そのような構造からはじきだされる財の価値は、手数料サービスのそれだ。また、それは身分の固定化(逆にそこに陥らなかったものにとっては既得権益の固定化)という安心サービスのそれでもある。が、それは日本的「営業」同様、ソフトな資本財の蓄積や持続可能なインフラになるような(社会・人材資本に投資するような)サービスではない。

本来必要なのは、単純労働への人的資源の特化ではなく(そこには既得権益に入り込めなかったかなり優秀な人材もかなり多い)、ヴォケーショナルかつ多様性のあるスキルポートフォリオでの教育向上機会、またそれがすでにある人材、もともと教育されてきた人材にとっては、それが既得権益上の実績の有無に関わらず、事業会社の中で活かせる機会の開放ではないだろうか。

それが上級管理職や正社員の正規労働所得を競争の顕在化によって脅かすことになろうとも(そしてまさにそのような競争を忌避するための制度でが現に存在しているのではないかと)。

ま、正規・非正規の垣根が低く、比較的多様な仕事を経験しうるチャンスが逆に流動性によって生じうる、というところが日本の非モナド的な雇用形態には少ないのだ。それが会社組織、人的資源の経験値をそれぞれに狭め、本来的な市場価値の獲得(や流出)を拒んでいる、そいういう内弁慶なカルチャーが見出した「価値」が、労働身分の制度的の固定という安心サービスであったのではないか。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/943bd8620b008ec7470e1c8cd090d533
〜引用〜
気になったのは私が「労働を市場原理にまかせればすべてOK」と主張していると受け取り、「市場原理主義」を批判するパターンが多いことだ

このあたりか・・・
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/a35608e0284ada31cab5f18d7208c554
〜引用〜
こういう階級闘争史観は、「派遣村」の人々にも根強くある。たとえば湯浅誠氏は「労働分配率の低下」を問題にして、企業は配当や「内部留保」を賃金に回せと主張する。これは共産党が50年ぐらい言い続けている話だが、そんなことをしたら、ただでさえROEの低い日本企業には誰も投資しなくなり、日本経済は沈没するだろう。雇用を生み出しているのは、株主の投資なのだ。

総体としては階級史観などという陳腐なものではない。その場にいるものたちにとっては、企業側にいる人間が安心の損失について考えるレベル同様、価値創出の創意工夫にまで関心がおよばないほど経験により条件付けられたなかで思いつく<せいぜいのその場の発想>なのだ。またはそういう発言だけではなかったのだろうが、そういう発言の部分しかメディアなり(一部)企業側は目につかなかった、ということとすれば、それも互いの悲劇だろう。(ま、階級はおいといて、ギルド的な身分制度で企業組織の調和が維持されることも、また、多様な生活サブカルチャーの可能性隠蔽というのはあるだろう。みなが同じことを感じているか、さもなければ単純な二元論で、というのを信じたい心性が集合的にあるだろうから)

oryzaの環境備忘録

ソーシャル・キャピタル - 池田信夫 blog

しかし1970年代以降、農村の「失業予備軍」が底をつき、1990年代の長期不況で下請けが切られて系列ネットワークが崩壊したため、バッファが派遣労働者という形で露出してきたのである。

だから湯浅誠氏のいう「溜め」を再建することは重要なのだが、それは非常にむずかしい問題で、厚労省生活保護を求めても実現しない。社会的資本の古典として知られるパトナムもいうように、近代社会が原子的な個人に分解される傾向は不可逆なのかもしれない。それによって日本社会の同質性が失われることは、イノベーションの源泉になる一方で、製造業の高い効率を支えてきた信頼ネットワークの「資本価値」を低下させるだろう。

製造業の効率性という観点でいくと、日本では「信頼型」の労働集約型の収斂が、下請けたたきによって下請け発のイノベーションを促してきたきらいもあるのだが・・・

・・・それはおいといて、ここで派遣労働のうち製造業に対するそれをいうなら、「生活保護で無理→モナド化」の時代の到来を待つまでもなく、それはむしろ国家として(またその主権者としての市民・企業市民に)制度責任があるだろう。だから、生活保護に限らず<労働ポテンシャルの効率的活用>をセットで実現する義務がある。少なくも私は一市民として(私は無国籍派のコスモポリタンなので国民ではなくあえて市民というが)、そのような義務を感じる。他人ごとではない。
・・・実際、基本的な生活権とボランティア的な労働をバーターで交換するような形式もよいだろう。一種のコミュニティハウス形式で、食・住のインフラを共有すれば、ある程度のプライバシーを確保しながらも費用効率の高い生活はできるだろうし、反社会的集団が実際に生活保護のピンはね目当てで住所不定無職者を一種軟禁しながら(無給で浮かしながら)換金してビジネスとして成立しているのだから、行政側でよりよい仕組みを企業と協業してできないはずはない。そういうときに単なるフィランソロピーではない社会貢献に熱心な会社が日本には相当少ないということに気づかされるわけだが。

・・・アショカ財団のビル・ドレイトンじゃないが、こういう状況だとつくづく社会起業家が日本でも要るなと感じるこの頃。。。(ちょっと余談だが)

「農協の大罪」〜池田氏blogの書評から

が、池田氏が以下のように考えるなら「労働」もかくあるべき、いや、「食料」の先に来てもいいだろう。

競争市場のグローバル化は(池田氏がそれをどう捉えているかは別として)、その対象となる「場」の安定を均質に捉えることにもその本質があるが、そのような前提は「能力」すら言及をタブー化された既得権益によって(意味づけの部分最適化的に)定義される世界が現にここに存在し続けるということを隠蔽した上で成り立つ、エリーティストなユートピア経済に過ぎない。

ちょっと喩えが遠いかもしれないが、交通の発達が新型ウィルスの発現チャンスを飛躍的に拡大するのと相似で、競争市場の落着き先となる想定「場」を均質に波及させれば、個々の状況・・・シチュエーションのダイバーシティへの所在への考慮なく、大きな仮想マシン的効率によって原理的に均質で単一の競争が仮構されてしまう。極端にいってみれば胃も脳みそも、手足も、神経系も、ビフィズス菌も、そのシチュエーションが依拠する部分最適化(そのよしあしは別としても)が同じ土俵での自由競争原理という(それも恣意概念的な部分最適化というもの)により単一化され、細胞増殖で競争することになると、まあ、その結果、一種の増殖効率が高い細胞種が限られたスペースでパンパンに増殖し個体(地球)を占有することになるということにもなりうる。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/b30f7850017c6e196746fd3208515adf
〜中略・引用〜
これは多くの経済学者の提案している政策だが、著者がその根拠として「食料安全保障」をあげるのはいただけない。彼は「国際経済学では生産要素は企業間・産業間を自由に移動できるという前提に立っている」というが、経済学にそんな前提はない。土地が固定されていても、それを使って生産した最終財の市場があれば、貿易を通して要素価格が均等化され、資源の効率的な配分が可能になるのだ。

が、自然界の種の競争は、その競争原理さえ多様であることにより、リスクヘッジが可能であったということもいえる。仮構された「財」の最大化を目的とする経済学な種ばかりではなかったわけだ(笑)。

誤解がないようにいいたいが、私は狭義な農業保護主義者ではないし、移民についても日本はより積極的に受け入れるべきたと考えている立場の人間だ。が、経済に関しては、近代経済概念はすでに古臭くなっていると考えている。せっかくここまできた人類だ、単一効率のマシンではなく、サステイナブル、かつ多様なデッドエンドに対してリスクヘッジ可能な、価値・生産分散型の経済概念を切り開くべき時代に入ったのではないかと思うわけだ。

〜引用〜
食糧安保の根拠を、中国などの値上げに求めているのもおかしい。中国が値上げしたロシアから買えばいいし、米が値上がりしたら麦でカロリーは補給できる。全世界で数年にわたってすべての穀物の価格が数十倍になって、GDP世界2位の日本が食糧輸入でカロリーをまかなえなくなるような事態は、世界大戦が起こらない限りありえない。食糧安保が「保険」だというなら、そのリスクを定量的に評価すべきだ。農産物価格の上昇へのヘッジなら、輸入元の多様化のほうがはるかに効率的である。

輸入元の多様化は確かに経済危機上はリスクヘッジにはなる。しかし、私の観点はちょっと違う。もう少し農業も人の生態系に近いところにあるものだという観点だ。たとえば、現在世界規模での植物種子の保存が急務になっている(とはいえ現在どちらかといえば産業側の関心だったりもするが)、また、地球規模の自然災害のリスクは1世紀前と比較にならないほど高まっている・・・など、いろいろな、これまで人類がその生存系を保証している生態系を当たり前と思ってきた前提が、だいぶんリスク対象になってきているということだ。カロリー云々ではない、人類の生態系を含めての自然生態系の変化へのリスクに対して、地表でのダイバースな生存圏が脆弱になっているわけだ。それは日本だけではない。農業の工場化についても、アメリカの蓄豚業での不衛生環境と抗生剤大量投入、発展途上国での安易な農薬の使用、遺伝子組み換え食物など各種のリスク要因がある。ま、上場会社の寿命は平均〜十年というから、そういう観点で担保できればそれも経済的かもしれないが。が、さまざまなリスクを経て「経済」が退場するリスクもあるわけだが・・・^^